自分が今触っているものはどこから来たのか?
ということを最初に考えたのは高校生の時だったと思う。ほとんど全ての製品が、元をたどれば誰かそれを作った人の手に繋がっている。そう思った時から、どんなにコンピュータとロボットが生産に使われるようになっても、手で何かを生み出すことの貴重さを疑ったことがない。
こんなあたり前のことをいま改めて思い出してしまったのは、この6年間日本が間接的に長い終わりの見えない戦争に関わっているということに今改めて光があたっているからなのだけど、どうしてそう思っているか少し説明が必要だと思う。
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この戦争について考えるとどうしてもゆきついてしまうのは、イラクとの戦いが始まった日のことである。当時はアメリカの学校で働いていたので、大統領の演説はテレビを学生達と囲んで見た。その週には”学校の業務の一環ではない”という但し書き付きで、働いているスタジオのメンバーが上司の家に集まり、思いを話すことになった。上司の家にメンバーが集まるということがある程度重みををもつのは、どの国でも変わらないことである。
この集まりにこの国の市民権を持たない僕がでるのはどうなんだろう、という疑問をもちつつ足を運んだその集まりでは、何故このような形で戦争をする必要がある(あるいは、思っている人がいる)のか、その裏にはどういう物事の考え方があるのか、という僕にはいささか難しい話に話題は移っていったのだけども、メンバーの一人の論旨展開は判りやすかった。それはウォールマート(アメリカの大型スーパー)が地方都市を席巻する際に起こることとパラレルである、という論理である。おりしもその町ではウォールマートの出店の結果地元の商店街が打撃をうけたばかりで、それは外国人の僕が町を歩いていてもわかるくらいだった。
この日僕が学んだのは、”一見非常にローカルに見える出来事が、実はもっと広い世界の出来事と繋がっているのではないか、と考えてみる必要がいつもある。特に、自分は世界の端っこで小さな物事をやっているにすぎない、と思っているときには”ということだと思う。
この考え方に僕はその後何度か出会うことになった。ある国で参加した展覧会では、キュレータ(展覧会の企画を行う人)の上司の学者の持論は”路上のゴミから世界の動きまでを繋いで考えられるようなパワフルな想像力をもっていなければならない”であった。
今こうして雲の上で政治が動いているように見える時、取るに足りない自分と世界を繋いで考えられる想像力が(どんなに疲れていても)重要なのだと思う。
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ところで、今これを書いているPCのキーがどこで作られたのかさえ僕はわからない。しかし、きちんと調べれば、このキーを設計した人物に電話してみることはこの世の中では可能なのだ。ある出来事と別の出来事がどのように繋がっているのか、一見はっきり見えにくい世の中だからこそ、そこを考えられる想像力が重要なのだろう。
そう考えたときに、遠くで続いている戦争と自分の関わりと、どこから来たかわからない物を使って生きている自分のあり方を同じまな板の上で考えて見る必要が見えてきたのだった。
土曜日, 9月 15, 2007
土曜日, 9月 08, 2007
自然は答えをみつける。消費者も答えを見つける。
自然は答えをみつける(Life finds a way)は、たぶんことわざのひとつ。映画”ジュラシック”パーク”では恐竜の島においてけぼりにされた科学者マルコム氏が劇中で何度もつぶやく(あるいは叫ぶ)言葉でもある。この映画の中ではこの自然の適応力(adaptability)に何度も人間は脅かされ、また(確か)救われる。
ところで、世界の半分は人間も自然の一部であることを忘れている。アジアの人である僕にはどうもこの自然と人間の対決というのは馴染みにくいのだけど、以下のような記事を読むと、人間もまた答えをみつける自然の一部なのだなと思う。
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ニューヨークタイムズの記事
世界のそこかしこにはびこりはじめたIkeaの家具をハックするという記事である。
”ハック”というのは、そもそもコンピュータオタク(あるいは専門家)が既成の機材やソフトウェアをいじってなにか素晴らしい別のものにしてしまう行為を示す言葉なのだけど、ここではその言葉が家具に対して用いられている。
このスライドショーをみたほうがわかりやすいかもしれない。
あるものはごく自然に、またあるものはいささか強引にいじくられて、あるべき場所を見つけたり、別の役目を果たしたりしている。
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最初に書いた”適応”というのは、コンピュータと人間の間のインターフェイスの世界では割とポピュラーな考え方のようである。いつのまにかメニューの上のほうににいつも使う機能がきていたりするのがその応用例(だと思う)が、”使いやすい”ものをあらかじめがんばって作っておくだけではなく、時間と共に”使われやすく”なってゆくような賢いプログラムをあらかじめコンピュータの側に組み込んでおくものである。
職人や大工の使う道具は、年季を経てその職人の体と使い方に沿った形になってなじんでゆく。この”馴染み”の中には、手の形と力の加わり方によって変形してゆく木の部品など、自然の素材が大きな役割をいささか受け身的に果たしているが、一方で職人は自分で道具を調整したり、自ら道具を作ったりもする。道具と人間の関係が相互に続くことによって”馴染み”感が完成するということなのだと思うが、我々一般ピープルの世界では、人間から道具への働きかけについては、今自分の身の回りにあるモノたちを見る限り、そうそう簡単にできるようになっていない。自分の手にしっかり馴染む携帯。。。なんて、東急ハンズにいってもそうそう簡単には作れない。
Ikeaハックの中には、ハックすることのパンクさを楽しんでいるものがある一方、この”馴染み”感を探しているように見えるものもある。
Ikeaハックは、”自然は答えを見つける”のように”消費者も答えを見つけるんだよ”ということを私たちに示しているのだろうか?
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このNYTの記事のキーワードは、Repurposing(別の目的を与える)であった。リサイクル、リユースとかけ言葉にしているのだろう。僕の部屋ではトマトの空き缶がペン立てに、大工が使う汎用作業台のための金具がベッドの部品になっています。自分の部屋をみまわして、何かいつのまにかRepurposingしちゃってたものがあったら、是非教えてください。
ところで、世界の半分は人間も自然の一部であることを忘れている。アジアの人である僕にはどうもこの自然と人間の対決というのは馴染みにくいのだけど、以下のような記事を読むと、人間もまた答えをみつける自然の一部なのだなと思う。
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ニューヨークタイムズの記事
世界のそこかしこにはびこりはじめたIkeaの家具をハックするという記事である。
”ハック”というのは、そもそもコンピュータオタク(あるいは専門家)が既成の機材やソフトウェアをいじってなにか素晴らしい別のものにしてしまう行為を示す言葉なのだけど、ここではその言葉が家具に対して用いられている。
このスライドショーをみたほうがわかりやすいかもしれない。
あるものはごく自然に、またあるものはいささか強引にいじくられて、あるべき場所を見つけたり、別の役目を果たしたりしている。
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最初に書いた”適応”というのは、コンピュータと人間の間のインターフェイスの世界では割とポピュラーな考え方のようである。いつのまにかメニューの上のほうににいつも使う機能がきていたりするのがその応用例(だと思う)が、”使いやすい”ものをあらかじめがんばって作っておくだけではなく、時間と共に”使われやすく”なってゆくような賢いプログラムをあらかじめコンピュータの側に組み込んでおくものである。
職人や大工の使う道具は、年季を経てその職人の体と使い方に沿った形になってなじんでゆく。この”馴染み”の中には、手の形と力の加わり方によって変形してゆく木の部品など、自然の素材が大きな役割をいささか受け身的に果たしているが、一方で職人は自分で道具を調整したり、自ら道具を作ったりもする。道具と人間の関係が相互に続くことによって”馴染み”感が完成するということなのだと思うが、我々一般ピープルの世界では、人間から道具への働きかけについては、今自分の身の回りにあるモノたちを見る限り、そうそう簡単にできるようになっていない。自分の手にしっかり馴染む携帯。。。なんて、東急ハンズにいってもそうそう簡単には作れない。
Ikeaハックの中には、ハックすることのパンクさを楽しんでいるものがある一方、この”馴染み”感を探しているように見えるものもある。
Ikeaハックは、”自然は答えを見つける”のように”消費者も答えを見つけるんだよ”ということを私たちに示しているのだろうか?
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このNYTの記事のキーワードは、Repurposing(別の目的を与える)であった。リサイクル、リユースとかけ言葉にしているのだろう。僕の部屋ではトマトの空き缶がペン立てに、大工が使う汎用作業台のための金具がベッドの部品になっています。自分の部屋をみまわして、何かいつのまにかRepurposingしちゃってたものがあったら、是非教えてください。
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